About GWAN 

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由来

学生時代に名字を音読みしたガンキョウと呼ばれていたことに由来する。

ハンドルネームを決めるときKWANSEIにならってGWANとした。

 

略歴

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1956年6月伊丹市に二人兄弟の次男として
    生まれる        
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1963年豊中市立豊島小学校入学      

物心ついたときにはもう小児喘息
だったため学校も休みがちであった。

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1965年伊丹市立南小学校へ転校

豊中の家が鉄筋コンクリート住宅で
あったこと、大阪空港の着陸コース
の真下であったことなどから転地療法として父の実家のある伊丹市へ転居

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1969年関西学院中学部入学

   タッチフットボール部

 

卒業アルバム

後列左から二番目、隣は猿木君、その隣は担任の北川先生(スッポン)、前列右端は
吉本君(チンパン)

 

一年の時はまだ体が弱く、練習も休みがちだったが、二年からはハードな練習にもついていけるようになった。病弱でひ弱だった私が、その後10年間もフットボールを続けることが出来、今のような丈夫な身体になれたのもこの時フットボールをさせてくれた両親のおかげだと思っている。

もっとも父は、戦後すぐの頃に同志社でフットボール(HB)をしていたので、やはり息子にもさせたかったようであった(第一回甲子園ボウル出場)

 

 

 

 

・三年のときの甲子園ボウルは惨敗

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1972年関西学院高等部入学

アメリカンフットボール部

      卒業アルバム

   #85佐野,#60山口,#75GWAN,#12猿木.#52関口

   #78住山,吉本.#23井上,#76松田.#30下地,#44畑

   #22岡本

   後列左から平岡先生(顧問)、倉智さん、松本さん、

   井場さん(ヘッドコーチ)、丸橋さん、崎先生(顧問)

 

高校に入ってもまだまだ身体は貧弱で体重も60kgぐらいしかなかった。ただ今ビデオを見返してみると動きは軽やかで当たり負けもほとんどしていないように思う。
何と言っても最高の思い出は高校最後の試合、
全日決勝で法政二高に残り1分強8-14の状況で
猿木君から畑君へのロングパスで逆転勝利したことである。
相手の最後のプレースクリーンパスを途中で見破ってタックルしたのを今でもはっきりと覚えている。(その時フェースガードの金具が壊れたが最後のプレーで助かったことも)

その全日決勝で初めてTV放映されたが、当時サンテレビのアナウンサーをされていた西澤さんに私がロスタックルを取った時父のことも紹介してもらい父はえらく喜んでいた。

卒業生VS現役の送別試合で、卒業生の父兄も卒業生チームに加わってやることになってプレイした時、私がプルアウトしてブロッカーになり猿木君からピッチを受けた父がキャリアとなったのだが、怪我をさせてはいけないと審判をされていた崎先生の早めのホイッスルに「なんであんなさわったくらいでホイッスルやねん。あれぐらいのタックルで倒されへんぞ」と怒っていた。
年は今の私よりも二つ上で46歳だったと思うがえらく気合いが入って元気であったと思う。今の私にはちょっとそこまでの自信はない。

 

・三年間全国制覇

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1975年関西学院大学社会学部入学

          アメリカンフットボール部

       

 ブリガムヤング大学が来日しKGグランドで、クリニックを

 した時の写真 左からGWAN、杉田さん、#60伊藤忠さん
 右端の黒人が確かオールアメリカンのガードだった思う 

卒業時の写真 

後列左より松田、畑中(BOUT)、神谷、下地、井上、高見

中川、田中(トンぺー故人)、岸野

前列木下、成瀬、住山、越中、岡本、GWAN

 

 

 

 

 

 

大学へ入学してすぐにはクラブに入らず岡本君や下地君とともに勧誘から逃げ回っていた。
6年間ずっとフットボール漬けだったこと、腰を痛めていたこと、せっかく男女共学になって少しは一般学生のような生活がしたいと憧れたことなどからであったが、2ヶ月もしないうちにグランドに足が向いてしまっていた。
ずっとしんどくてイヤだと思っていた練習だったが、やはりいざ離れての何もない生活に物足りなくなってしまったのだと思う。

2年からセンターをやることになったが、指が短く片手でボールを握るのがやっとだったためボールが遅いとよく#12にいじめられた。
当時はまだ握力があったので片手で何とか握れたが、今は片手ではとても握れない。#50はその時の名残。

2年の春シーズンの終わりにいよいよ腰の状態が悪くなり、チームドクター織部先生からヘルニアと言われた。病院での診断ではまだ軟骨は発生していないが、背骨は開いているとのことでドクターストップとなった。
秋のシーズンはマネージャー的な仕事をすることになった。
リーグ戦の連勝記録を止められた京大戦でもスコアボードの裏から8mmを撮っていたのだが、敗戦が決まって1週間後にプレイオフとなった時、知人の写真屋から無理を言ってもらい、その日の夜に京都の東洋現像所に持込み1日で仕上げてもらったのを今でもはっきりと覚えている。
(当時はビデオもなく8mmフィルムの現像は1週間近くかかっていた)

3年になり腰の状態もだいぶ安定し、休んでいてもこれ以上良くもならないと言うことで、練習を再開。
この時にはほぼディフェンスライン一本となり春のシーズンから交代で使ってもらい、秋からはスターターとなったが、3年の思い出といえば、やはりあの「涙の日生」関京戦ということになってしまう。
ただ試合序盤で意識がなくなった伊藤忠さんほどでもないが試合中のことはほとんど覚えていない。
後になってあの試合でフィールドの中に居れたということが大きな自信となったことは間違いない。

(この関京戦の秘話はDEAR OLD KG FIGHTERSで)

3年でのもう一つの思い出は全関西とブリガムヤング大との試合である。これはもう日本のフットボール史上最悪のマッチメークだと言わざるを得ない。
当時の全関西の最重量選手が98Kg(おそらく平均では80Kgもなかったはず) そのチームと全米ランク16位(バックスでも100Kgあって100m11秒台で走ってくる)のチームと試合をやろうというのだからムチャである。
たしかオールアメリカンの選手も数名いたはずである。ただこの試合に出られたこともすごくいい経験であったと思う。
(三軍のQBはなんとあのスーパーボウルでも活躍したシカゴベアーズのジム・マックマーンだった)

4年では残念ながらあまりいい思い出はない。
新チーム3試合目にしてQB猿木君が首の骨を骨折して戦列を離れるということもあったが、前年の戦いからも苦戦が予想された京大に勝って甲子園ボウルに出ることが、最大のモチベーションになってしまっていたのであろう、前年の敗戦から打倒KGを目標に1年を過ごしてきた日大の前に無惨にも大敗を喫してしまった。
甲子園ボウルでの56点差は未だに破られていない。
近年は立命の台頭もあって甲子園ボウル出場が命題となり、やはりモチベーションの持ち方が難しくなっていると思う。こうなるとやはり昨年の法政のように打倒KGで一年を過ごしてくるチームには勝てなくなってくる。
ただこれも実際に負けたから実感として思えるようになったのであろうからあの敗戦もいい経験であったと思う。

・三年間全国制覇

・4年時甲子園ボウル

  KG 7:63 日大

 

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1979年4月 積水化学工業(株)入社

  入社以来ずっと同社住宅部門に所属。

  「セキスイハイム」販売に携わり累積販売棟数237棟

 

一時は社内にフットボールのチームを作ろうとしたらしくフットボール経験者が多数社内にはいたが、結局住宅営業という日曜は休めない部署にほとんどが配属され現実的にはフットボールにはほとんど縁がなくなってしまった。
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2007年9月末 積水化学工業(株)退社 

かねてよりファイナンシャルプランナー(CFP)の資格を
活かした仕事をしたいとの思いがあり、早期退職制度を
利用して退職。

次のステージに向け活動中

About GWAN's FATHER

父は上にも書いたように戦後すぐの時代に同志社でフットボールをしていた。

ポジションはハーフバックとデフェンスバックをしていたようである。
ただ肺の病気を患い2年ぐらいしかプレーできなかったこともあってか現役時代の話はあまり聞かされなかったが
記憶に残っている話を一つ。

昭和22年春、京大が創部することになり同じ京都の学校ということで同志社が教えたそうだが、その京大に

秋に負けてしまったそうである。

「春に教えてやっと始めたばっかりのチームにその年の秋に負けるなんて情けなかった」とよくぼやいていた。

また試合途中からも腹が立っていて強烈なタックルを浴びせ、京大選手の足の骨を折ってしまったが、下宿が

近かったこともありその選手を自転車の後ろに乗せ毎日学校まで送っていったという話しも聞かされた。

 

父と一緒に見た最初で最後の甲子園ボウルの話は、FIGHTERSホームページに掲載された97年甲子園ボウル

「59秒の真実」の筆者小野コーチへのお礼のメールに書きましたので、それを転載します。

 

『Fighters ホームページいつも楽しく拝見しています。

 

特に「59秒の真実」は、大変感動し、OBとして誇りにも思いました。

またこの年の甲子園ボウルは、親父といっしょに見に行った最初で最後の甲子園ボウル

でしたので特に感慨深いです。

 

私のおやじは、戦後まもなくの時代に同志社でフットボールをしていました。

(鳥内のおっちゃんと同年代)

私の現役時代もずっと同志社サイドで応援していたようですが、ただ変に正義感があり、

ある時若いOBが酔って少し低俗なヤジを飛ばしていたのを注意して言い合いになり相手側の応援席に

移ったこともあったそうです。

おやじからは直接は聞かなかったのですが、その後の同志社戦での試合前に当時の監督森田さん

から「お父さんに謝っておいてほしい」と内容を聞かされて初めて知りました。

 

そんなおやじでしたが、その年の3年程前から肝臓ガンを患い入退院を繰り返していました。

残された時間があまり長くないことをお互い分かっていたこともあり、久しぶりに甲子園に出ることに

なったので、いっしょに見に行こうと初めて一緒に見に行ったのがあの試合でした。

おやじの人生で最後に見た試合があの感動的な試合だったことは、我々親子にとっては本当にいい
思い出となりました。

現役諸君、コーチ諸氏には感謝の気持ちでいっぱいです。

おやじは翌年4月29日他界しました。「59秒の真実」はプリントアウトして渡しておいたので読んで
くれたとは思いますが、感想は聞けぬまま逝ってしまいました。

ただきっと同じように感動してくれたと思います。 

学校こそ違え同じフットボールを通じて青春時代を過ごした仲間として・・・』

 

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